仕事を動かす大学職員になろう(非営利組織のコンピテンシー)

仕事ができる大学職員とはどういうものか、考えていきます。知識や情報の提供というよりは実務的な内容。非営利組織全般に通ずる話も出てくると思います。

手段の先にある目的を意識して仕事しよう

ぽっど@です。


少し前にテレビを何気なく見ていたら、川崎市の中学生殺害に関する事件に関連して、教育学者の尾木直樹(尾木ママ)先生がおよそこんなことを言っていました。

  • 中学校の担任教諭は事件が起こるまでに(不登校状態だった)被害者の家庭に対して「家庭訪問5回、電話は合計34回した」と言っている。しかし、これは評価されるべきことではない。
  • 担任教諭は不登校児童が発生した場合、その家庭に対して訪問や電話をする定めがあり、電話したら日時をそのつどExcelに記録し、年度末に校長に提出することになっている。記録はそのための資料に過ぎない。
  • 不登校の生徒に対する電話やその記録は「手段」であって「目的」は不登校児童の実態をつかむこと。
  • そのことを理解せずに100回家庭訪問や電話をしたところで意味はない。
  • 今回の事件は、クラスの生徒に聞けば解決できていた問題。
  • 電話した日時の記録が「こういう風にやってましたよ」と外部に説明するための証拠作りになってしまっている。

ここで、中学校や教育委員会側が別の対応をしていたら被害者を救えていたかどうかについては焦点にしません。

重要なのは、尾木先生の「証拠作り」という言葉です。「アリバイ作り」とも言い換えられると思います。

尾木先生の言葉を噛み砕くと、「目的と手段を取り違え、目的を果たせる手段だったかどうかの視点を伴わずに『自分はこういうことをやった。やるべき仕事はした』と主張するのは誤りだ」ということではないでしょうか。

 

このような目的と手段の関係は、しばしば山登りに例えられます。

(1)目的(山頂)はひとつであること、(2)その目的を達成する(山頂にたどり着く)ための手段(ルート)は複数ありえること。(3)状況が変われば、正解となる手段(ルート)も変わること、などが共通しているというものです。

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 仕事には必ず目的があります。

言い換えれば、何かの目的を達成するために仕事があるということです。

したがって、目的を達成しているかどうかという部分に目を向けることは、日頃仕事をする上での基本となります。


しかし残念ながら、冒頭の例のように目的よりも手段に意識が集中されるケースは私たちの身の回りでもしばしば起きます。そして、ここでいう手段の多くは、「形式」や「手続き」に置き換わります。

いくつか例を挙げてみましょう。

「キャリア妨害」(東京図書出版、2011年)という書籍があります。
民間企業を経てある公立大学に転職した筆者・菊地達昭氏が、同大学での経験を退職後にまとめた書籍です。

この書籍は、かなりストレートに大学職員の仕事についての問題点を指摘しているという意味では読む価値は大いにあるのですが、一方で、記述がかなり偏っている箇所も多く見られるという、評価が難しい書籍です。大学側もこの人にはきっと手を焼いていたのだろうと推測できます。

さて、この書籍で参考になった部分のひとつにペットボトルを買うのに見積書が必要、というくだりがあります。


同書によれば、その大学はペットボトル1本買うのでさえ見積書・納品書・請求書を出さなくてはいけないルールがあり、「物事の本質より常に手続きを重視する」と指摘しています。

おそらく、その大学で書類を出させる目的としては、
1)不適切に高い金額で買うことを防ぐ
2)架空請求を防ぐ
の2点かと思います。

しかし、同書にも書いてあるとおり、これらの目的を達成するためのやり方(手段)には問題があると言わざるをえません。それは、購入先がペットボトル1本を買うのに3点の書類を出してくれる業者に限られてしまうことや、書類を経理に提出する手間かかるということいったことだけではありません。

もっとも問題なのは、書類さえ揃っていれば大学側は何も言ってこないという点です。同書ではそれを「形式主義」「手段の目的化」と切り捨てていますが、これは今回の記事のテーマとまさしく合致します。

目的を達成するのにベストな手段は、その時の状況に応じて変わります。これまでやってきた手段をこれからも続けることが正解とは限りません。

したがって、形式的な要件を満たしているから内容面は何でもOK、というのはおかしな話です。

自分たちがとっている手段が目的を達成しているかどうか、このことにもっとも意識を向けるべき点です。

「シュートは自分は打った。ただしゴールしたかどうかは興味が無い(自分は悪くない)」という姿勢は無責任ですし、組織にとって大きなマイナスです。

 

ペットボトル1本で見積書をとる例はやや極端かもしれないので、似たような例として、稟議について考えてみましょう。

おそらくどこの大学も、ある程度の金額以上の契約など重要な案件については稟議書などの書類を上司や関係部局に回すことになっているかと思います。

ここでの手段は「稟議書を回すこと」。目的は「上司に担当者の案をチェックしてもらい、その実施の可否を決めてもらうこと」です。

もし皆さんの大学で、上司が印を押す際に書類をしっかりチェックし、中身について疑問点を尋ねてきたり、時にはツッコミを入れてきたりなどしてくれるならば、稟議の本来の機能が働いている可能性が高いでしょう。(ただし、稟議を出す担当者からすれば口うるさいと思うかもしれませんね)

しかし、もし稟議書の提出が形式的になっていて、色々な人のハンコが押されるけども中身については常に何も聞かれず承認される、ツッコミが来るとしても書式や形式的な部分しかない、形式や手続きを満たしていれば中身の妥当性はまず問われない、といった状況であれば、残念ながらその大学の稟議システムは、本来求められているはずのチェック機能が充分に働いていないかもしれません(責任意識の分散化には寄与しているかもしれませんが…)。

 

最後の例として、情報の発信について考えてみましょう。

学生向けにとある手続きに関する情報を発信することになっているとします。ここでの目的を「正しい手続きの仕方が学生にちゃんと認知・理解されること」としましょう。

そして情報発信後、手続きについてほとんど理解していない学生からたくさん問い合わせが来たとします。

そこで、「最近の学生は掲示すら読まない。こちらは所定の掲示板にちゃんと掲示を出している」と学生の至らなさで思考を終わらせてしまうのと、「問い合わせが多数来たということはこちらの情報の発信方法にも問題があったかもしれない。学生が認知しやすい場所や方法を次回から工夫しよう」と考えるのでは大きな隔たりがあります。

もちろん、発信された情報を読まなかった学生側にも落ち度があるケースもあるでしょう。ですが、情報の発信側としても、前年踏襲でそのまま続けるのではなく、必要に応じて手法を変えていくことが重要です。


この手段と目的の話は実は色々な話につながってきます。

目的の達成を意識するということは、結果に責任意識を持つことです。それはつまり当事者意識を持つことでもあります。

また、目的達成のためにベストな手段を考えるとういことは、従来のやり方にとらわれない思考を持つことです。それはつまり、変化を引き起こします。

大学は手続きや書類といった形式をとても重視する風土があります。もちろんそれらは一定の役割を果たしていますし、これまでのやり方についても尊重する必要はあります。

しかし、数年前にベストだった手段が、今もなおベストであるとは限りません。いえ、そもそもその時にとった手段がベストでなかった可能性もありえるのです。 

私たちは目の前の仕事に追われがちですが、時にはふと立ち止まり、今の仕事のやり方やあり方を見直す機会を持つことが必要だと私は思います。

まとめ

・すべての仕事に目的があります。

・目的を達成するための手段は複数あります。そして、ベストな手段は時と場合によって変わります。

・今やっている仕事の目的は何か、目的を達成しているかどうかを意識していますか。